「2006 夏」

今年の夏も、幸せなことにいろんなアーティストの方とのツアーなどで大忙しである。

黒田倫弘くんの「unchanged」ツアー。
1stアルバム「barefoot」からずっと一緒に作品を創り続けてもうすでに6枚目。
この5年間まさに振り返る間もなく、彼の創る楽曲をアレンジして、レコーディングして、リハーサルをやって、ライブをやって・・・。

こうやって一緒に音楽を創り続けて来れたこと、僕と作品を創ることを選択してくれた黒田くん、そしてそれをサポートしてくれている周りのスタッフに、僕は心より感謝してしている。そして、その出来上がった楽曲を聴いてくれる全ての人に。

本当にありがとう。
彼の作品の全てが、僕にとってもまるで子供のような、宝物のような存在である。

そしてその、愛しい子供たちを連れて全国の人に逢いに行く。
これは、ミュージシャンにとってやはり一番幸せなことである。

そんな幸せな、今年の夏のツアーも残すところ渋谷AXでのファイナルのみとなった。

夏のこの時期、ツアーが終わろうとするこの感じ。安堵感と同時に、切なく、やるせなくなるこの感じ。
僕がUB-TAPSというバンドでデビューした17年前、初めて経験した全国ツアー。
無名新人バンドだったから、メンバー全員が器材車のハイエースに乗っかってのライブハウスツアーだったけれど。お客さんが3人しかいない場所もあったけれど。
楽しかった。

そうそう、先日ひょんなことがきっかけで、そのUB-TAPSが1度だけ再結成した。
当時お世話になっていたライブハウスが閉店する、ということで20年近く振りに四谷フォーバレーのステージにメンバーが立った。
自分たちでお金を出し合って小さなスタジオを借りてリハーサルをやって。
とても懐かしかったし、楽しかった。
がしかし、あまり感傷のようなものはなかった。
当時の会社のスタッフとかも集まってくれて皆で打ち上げをやって、その一連の日々で思ったのは、ああ僕らにはプロ意識が足りなかったんだなあ、ということ。若かったんだな。
もっとこうすれば売れる、とかこうすればレコード会社が動いてくれるとか、宣伝費を使える、とかそういうことを考えるのが汚いことだと思っていた。自分たちのバンドの音楽が汚れる、と思っていた。音楽を、自分のバンドをビジネスにする、ということがよくわかってなかった。

でも今回の再結成で、あのときはそれで良かったんだ、と確認することも出来た。
20年経って、ひさびさに顔を突き合わせて音を出した時、「懐かしい思い出」な感じにはならなかったから。ああ、かっこいいことやってたんだなあ、と思えたから。
大切なのはその時に自分が信じたことをやることだ、とかよくいろんな人が言うけど、それはこういう意味なのかな、と少しだけわかった気がした。

話がそれてしまったが、今年も夏が終わると同時にツアーが終わる。
この夏、一生懸命育ててきた子供たちとも渋谷AXでいったんお別れである。
あ、そういえば先日・・・また話がそれるが(笑)、ドリームズ・カム・トゥルーのアリーナツアーのファイナルを観に行ってきた。そのMCの途中で吉田美和さんが「今日でファイナル、ってことは今日でこのセットも壊しちゃうんだろ・・・Chu。」とステージの床にキスをした。

客席で観ていてぼろぼろ泣いてしまった。

・・・そういうことである。最高の東京ファイナルにしたいと思います。

2006年8月22日


「1/11」

多忙な日々ではある。2005年を迎える直前にいろんな仕事の話を頂き、正月気分もそこそこにMacの前に缶詰めだった。いや、今もそうなのだが。

マネージャーの糸井くんもBBSにupしてくれていたが、NHK「サタデースポーツ」「サンデースポーツ」のBGM、というかジングルの制作。
日経の「カムジン」という新規創刊の音楽雑誌の付録CDのBGM制作。
そして先日レコーディングを終えてきた、岩崎宏美さんへの楽曲提供、これはギターとコーラスでも参加しています。青柳誠さんのアレンジで、ツアーメンバーでのレコーディング(ドラムの石川雅春さんはスケジュールが合わず渡嘉敷佑一さん、こちらももちろん日本屈指の素晴らしいドラマー)、という、気心知れたとても暖かい雰囲気のもと、とても心あたたまるトラックが録れました。青柳さんのアレンジは最高です。楽曲を何倍何倍も素敵なものにしてくれました。

そして今日も本番を終えてきたばかりですが、黒田倫弘くんの2005年1発目の東名阪ツアー。ちょっと変則的に東京、大阪は通常のバンドナイト。名古屋はCh@ppy、VJオギクボマンとのコラボレーションによるトランスナイト。
これらがもう!とても素晴らしい年明け1発目となった内容。
バンドバージョンでは、このバンドメンバーになって、いろんなことに妥協せずリハーサル、ライブを重ねて来てよかった。バンドのグルーヴが黒田くんの楽曲、唄を支え、完璧に彼の世界をサポートしている。ああ、こんなサウンドを目指していろんなセッションを繰り返してきたんだ、と確信できた2日間だった。
トランスバージョンでは、Ch@ppyが黒田くんの楽曲にさまざまなリミックスを加え、打込みのトラックを制作してそこに僕と葛城さん、永井さんのプレイが乗っかる。そしてオギクボマンの映像がそこにコラボレーションする、というある種実験的な空間。楽曲や歌詞が持つストーリー、必然性、というよりも、サウンドと映像、そして黒田倫弘の世界を混沌、昂揚、恍惚という側面から昇華させていく試み。
これもとても面白かった。4分打ちのキック、規則的なビートがもたらす反復によるトリップ感。それらのトラックと、ステージ上での生演奏を大音量で増幅することによって、オーディエンスの脳内麻薬を分泌させて恍惚感を感じさせたい。そんな試み。
バンドバージョンとトランスバージョンの両方に参加していたメンバーには、楽曲の尺や構成も違うし、いささか難儀なものではあったが。
しかし、とても有意義な試みだったと思う。名古屋のELLという会場は照明、音響的にもその試みにとても適した会場だった。

今はまだ、詳しいことを発表出来る段階ではないのだが、昨年の暮れより着手し始めた新しいプロジェクトも、その制作まっただ中である。ゲームのキャラクターのための楽曲10数曲の、作詞、作曲、編曲を手掛けています。全てのスタッフが大きな意欲を持って制作しているプロジェクトで、僕も自ずと作業に力が入ります。完成した折には、たくさんの人に満足してもらえるように、日々MACの前で奮闘中です。お楽しみに。

ということで慌ただしい年始ですが、今年もみなさん、よろしくお願いします!

2005年1月13日


「黒田倫弘2004野音。終了」

終わってしまった。自分的には大成功で、ああ、これほど充実したツアーは初めてかも、と思うことが出来た「SEED TOUR」から間をおかず。クロダ単独公演、日比谷野音。2004/10/11。

全てがあっと言う間の出来事だった。この、ほんの数分、数秒のために何日も何時間もかけて準備した、さまざまなことが次々と終わってしまうのが寂しかった。元来ライブとはそういうもので、だからこそライブなのだが。「観に来た人がこういう風に楽しんでくれればいいな」と思って創ったいろんなものが、その思い通りにきちんと伝わるだろうか、という事が開演直前まで気になってしょうがなかった。それはオープニングSEだったり、いろんな演出だったり、そしてもちろんアレンジを変えたものも変えてないものも含め全ての楽曲において。
しかし、僕はステージ上で確かな手応えを感じていた。「あ、伝わってる」と思った。もちろん、全てのお客さんが100%満足してくれた、などとは思っていない。不愉快な思いをした人や楽しくなかった人ももちろんいるだろう。でも、そのことが自分の中ではマイナス要素になることはなかった。なぜなら、クロダ、クロダバンド始めこのコンサートに関わった全ての人が全力でこのコンサートを成功させようとしていたから。
そのためにいろんな人がエネルギーを傾けて準備しているのを知っていたから。
それは確固たる自信となってステージ上のパフォーマンスに表れる。「ポエポエ」の前の、コントめいた寸劇だってそうだ。やりたい、と言ったのはクロダ自身だった。格好いい自分とそうじゃない自分。そのギャップを楽しませる自信があったのだろう。僕らは若干の不安を感じながらも「クロダについていこう」と思い作業を進めた。何時間もかけてSEを創ったりセリフを録り直したり、そしてリハーサルを重ねた。
「お笑い、は奥が深いよね。」これはいろんな人がリハーサル中に口にした言葉だ。不安は誰もが感じていたんだ。でもクロダは一度も「やめようか」とは言わなかった。絶対楽しませる。そんな熱を感じた周りのスタッフからもどんどん意見が出るようになった。そうしてみんなで創りあげたものだ。みんなにそんな自信があったから。拒否反応をおこした人もいることは容易に想像出来る。あのクロダがハゲづら、だもの。
でも、笑い声が沸き上がった時、歓声が起こった時。心の底から嬉しかった。ひとつのアートが成功した、と思った。

以下セルフライブレポでございます。

Opening SE〜「Bulldog66」

このSEは、クロダからディズニーランドっぽいヤツがいい、と発注を受け僕が創ったもの。エレクトリカルパレードで始まってホーンデッドマンションで終わる、みたいなヤツ(笑)と言われ、そんな簡単に言われてもー?!と、あわあわ言いながら何とか創りあげた。僕は去年の野音を何度も何度も思い返しながら、お祭りにふさわしい、わくわくするようなオープニングにしたい、と願って作業を進めた。そして恒例のクロダお得意のMCを入れて完成した。
SE終わりでクロダが登場してドラを叩いて、Bulldog66。僕はリハーサルの前の、構成の段階でもうわくわくしていた。そしてこれも恒例となりそうな音玉、光玉の特効。「ここで来ますから!」とスタッフから何度も聞かされていたにもかかわらず、やっぱりメンバー皆ひっくり返りそうだった。

「エモーション」「Spiral Century 」「Jump'n Dash」
もう飛ばすしかないでしょう、というメニュー。しかしSEED TOURという大きな結果を経て、機が熟した状態のクロダバンド。落ち着き払った重厚なグルーブ、それでいてクロダの熱に呼応するように熱さを増していくサウンドを創り得た、と思っています。

「Nell Flap」
ちょっと懐かしいですね。イントロのストリングスが出てくると胸がしめつけられる感じがします。
そしてちょっとしたところですが、間奏前のクロダの声が野音に響き渡って、葛Gのアコギのソロに繋がる、という場面を想定してアレンジを練り上げました。
「Decadence」
これもやはりあの会場にふさわしいオープニングにしたいな、と思いアレンジしました。
残念ながら月光は輝いていなかったけれど、それに手を伸ばすようなクロダの唄だったと思う。
「桜Odyssey 」
「 Future In Blue 」
3rdアルバム「Future In Blue 」からの楽曲群。あの世界観が再びよみがえった。バンドのサウンドもあのツアーとはひとまわりもふたまわりも違う、重厚なグルーブを醸し出していた。

「サバイバルGo Go 」
「麗しのR&Rスター」
メンバー全員が前に出てのアコースティックセット。「麗し〜」ではいつぞやのインストアイベントの時に楽屋で何となく創って、やり始めたあのバージョンがすっかり定着してしまった。
もともと人を笑わすことにも大きなこだわりを持つ関西人クロダである。そろそろ封印したいと口にしながらも曲順などで困った時はあのバージョン、となる(笑)。いつまで続くのかは誰にもわからない。
そしてクロダが言い出した、「ツイスト&シャウト」みたいなコーラスを入れたい、というシーンを挿入してのアレンジとなった。

「トカゲの陽 」
「Water Colors 」
「Daughter Beyond Ashes 」
この日の「トカゲ〜」は凄かった。やっさんの叩き出すビート、SEIちゃんのオルガンのグルーブが一体となってほんわかしていた場面を一転させる。そしてこの曲独特の張り詰めた緊張感を持ちつつも、この日のクロダはとてものびやかに唄っているように見えた。これまでの、ベストアクトだったと言える「トカゲ〜」だった。
そしてSEED TOURの流れを組むこの2曲。いわずもがな、である。2004年前期のクロダの集大成とも言えそうなシーンでした。

「出かけよう 」
「ポエポエ 」
さて、問題のコントを(笑)はさむこのシーン。バンドメンバーのみで演奏される「出かけよう」の僕の見せ場である(笑)ソロのコーナーを容赦なく寸断され(大笑)、トラブル勃発と見せかけ寸劇になだれ込む。
この辺のアイディアが誰から出たものなのかはよく知らないのだが、ここに関しては舞台監督の淳ちゃんがかなりこだわって作り込んでいた。寸劇のキャストの種明かしはここでは控えるとして(笑)、しかしその4人全員がとても光っていたと思う。それぞれがキャラクターをしっかり発揮しており「ポエポエ」本編でもがっちり盛り上げてくれていた。この辺のキャスト配置はクロリンだ。さすが、この人ならこんな動きをしてくれる、というのをしっかり見据えた上でのナイスキャスティングである。
客席に配置されたポエポエ団も少ないリハーサルの中で、最高の本番に盛り上げてくれた。いやあ、楽しかった。観に来た友人は「彼らの引き際が見事だった」と感心していた。

「憂いのR&Rスター 」
「サンディー」
「Cokescrew Coaster 」
「スリルバカンス 」

「サンディー」の間奏で見事なバク転を見せたクロダ。「ふむふむ、そこにマイクを置いて。なるほどバク転して戻って来てそこでマイクを掴めるようにするわけね。なるほどぉ、さすがだねえ、プロだねえ!」と」感心して見ていたら。間に合ってないじゃん!(爆笑)Bメロ欠けてんじゃん!・・・まあご愛嬌ってことで(笑)。
そして懐かしの 「Cokescrew Coaster 」
これもあらためて見直そう、ということで何度もリハーサルを重ね、特にSEIちゃんにはいろんな負担がかかってしまった。ちょっと初期に演っていたバージョンに近いテイストになったかな。

大盛り上がりのうちに本編も終了。去年の野音は暑さも手伝って、いわゆる音、演奏の点みたいなものが見えなくなることが多かった。しかし今年はどんなに盛り上がって熱くなっても、バンドのアンサンブルが崩れることはなかった。やっさんとコンちゃんのしっかりしたグルーブの上に僕と葛Gのギターが乗り、そしてSEIちゃんのキーボードが色彩を添えていく。そしてそれらは全てがクロダの唄を核として。
そんな確かな手応えが揺らぐことのないライブだった。

アンコール
「オレンジ 」
「Easy Bazooka 」
「Wonderful Life 」
懐かしいけど新鮮だった。「Wonderful Life 」別に何か理由があって演らなくなっていたわけではない、と思う。だからクロダがこの曲を演りたいと言った時もさして驚きはしなかった。しかし、今回のリハでこの曲を始めてやってみた時。あらためて「ああ、良い曲だな」と思った。良い歌詞だな、と思った。
たぶん楽曲としてのクオリティの高さ、とか作詞家としてのスキル、とかそういうものとは全く違うベクトルの、クロダがソロで歩き始めた時の熱、そしてそれを一生懸命応援してきてくれたファンの人たちの思い、みたいなものがこの曲には宿っている。
そしてそんな、その時その時の熱を宿した楽曲をクロダは持っている、ということにあらためて感動した。彼が一歩ずつ歩んで来たその歴史は揺るぎないもので。
そしてそれは確実に彼の成長に、今の黒田倫弘の立ち位置に確かに刻まれている。

とても素晴らしいお祭りになったと思っています。とても気持ちの良い思いをさせてもらいました。
クロダバンドの皆さん、全てのスタッフの皆さん、全てのファンの皆さん、そしてクロダくん。
どうもありがとうございました!

2004年10月13日


8/9 「KISEKI〜Whiteberry」に寄せて

「北海道北見在住の現役中学生ガールズバンド」
こんなキャッチフレーズでデビューした彼女らを「めちゃイケ」で見かけたのがもう何年前の話だろうか。
ジッタリンジンの「夏祭り」のカバーで一躍ヒットチャートに躍り出た彼女たち。
そしてその後も「桜並木道」などヒット曲にも恵まれながらも、低迷する音楽業界の不況の風の中Whiteberryは、拠点であった北見でのライブを最後に解散した。

僕は、作曲、アレンジ、サウンドプロデュースという形で、何曲か彼女らの作品に携わらせてもらった。
彼女らのリハーサルの拠点であった北見の練習スタジオに、プリプロ、デモレコーディングのためにお邪魔したこともあった。そうそう、その時のことだ。北見に向かう途中、大雪のため電車が完全にストップし足止めをくらったのだ。その時はあらためて、北海道ってすげーな、と思った。
どんどんどんどん降り続ける大雪を目の当たりにして、ついに止まってしまった電車の中で僕はちょっとだけ本気でこわかった。そしてレコーディングスケジュールの都合上なんとかその日の内に北見に着くことを案じ、慌てていたスタッフと自然の猛威におびえている僕らの目の前で、車掌さんは「あ、こりゃ今日は無理だ」と軽く言い放った。実際その日はどんな交通手段を使っても、北見に入ることは不可能だった。

僕は彼女らのために何曲も曲を書いた。メーカーのディレクター氏の要望を受け何度もメロディーを書き直した。スタッフと何度も制作ミーティングを行った。YUKIちゃんの声にはどういうスタイルの楽曲が合うのか。初めて「夏祭り」を聴いた時からその声の魅力に取り憑かれていた僕はいろんなアプローチをスタッフと一緒に試行錯誤した。みんな、大人みんな必死だったのだ。
なんとかWhiteberryが大きくなっていけるように知恵を絞った。
しかし、僕が頑張れば頑張るほど、当のWhiteberry本人たちとは距離が出来ていくように感じた。
YUKIちゃんのボーカルレコーディングの時のことだ。
僕の「こうやって唄ってみない?」という要求が重なるたび、彼女はやってみてくれようとはするもののなかなかうまく行かない。彼女のジレンマをブースのガラス越しに感じながらも、こうなればもっと良い、というのが見えている以上、プロとして仕事に妥協するわけにはいかない。
何度かそんなやりとりがあり、僕はついに彼女に「わかんない」と言わせてしまった。彼女の新たな表現を引き出すことに失敗したのだ。その瞬間。
「あ、こわしてしまうかも」僕は漠然とそう感じた。バラバラっとコミュニケーションの糸がほつれてしまうようだった。
その糸はとても繊細な繊維で出来ていた。「レコード会社の人が連れて来た新しいアレンジャー」である僕と、なんとか新しい音楽を創ろうとしていた16、7歳の彼女たち。
Whiteberryという看板が大きくなればなるほど、大人たちがその看板を大きくしようとすればするほど、彼女らは北見在住である、という感覚、年令相応であるという感覚を大事にしよう、としていたようにも見える。
例えば東京に住んで、例えばシンガーなどを目指していて、すでにいろんな業界と、その中の業界人と接しているその年代の子たちは、それなりの受け答えを知っているし、上手くやる術も知っていたりする。
Whiteberryのメンバーたちがそういう術を知らないはずはないと思う。幼いころからテレビにも出て、何度も東京でのレコーディングやライブも経験してきている。しかし、彼女らはあくまでも北見在住であり、そこではいつもメンバーが一緒にいた。東京で仕事が終われば彼女らは北見に帰っていつもの練習スタジオでメンバーだけでミーティングが出来た。いろんな、その時々の自分達を取り巻く状況について話し合うことが出来ただろう。
彼女らは、驚くほどバンドであったのである。たぶん、その結束は僕らの想像を超えるものだったんじゃないかと思う。Whiteberryというバンドは結果、日本の音楽業界に於いて大きな存在になったが、実際のWhiteberryは自分達の等身大を貫こうとしたのではないだろうか。あくまでも想像の域を出ないが。
そんな、北海道の真ん中で産まれたちっちゃな、あまりにも純粋で実直なコミュニケーションを体現していた愛すべき5人の女の子からなる、誰にも真似出来ない大きなバンドの足跡と、それを取り巻いていた大人たちの奮闘がここには収められている。
「KISEKI〜the best of Whiteberry」
みんな、大人たちはみんな、Whiteberryのことが大好きだったんだと思う。
メンバーの皆さんのこれからを、とても楽しみにしています。

2004年8月9日


7/28 「ニッポンの宝」

「ニッポンの宝」
おこがましい、僕なんかがこんな言い方をするのはとてもおこがましいのだが、他に言葉が見つからない。
まさにこの人の歌声はこう呼ぶに相応しい、と思った。

今年に入って僕は岩崎宏美さんのコンサートツアーのサポートを努めた。
半年近くに及ぶそのツアーは僕にとって、ミュージシャンとしてのあり方を強く学んだ期間だった。
言うまでもなく宏美さんは国民的なシンガーであり、僕がそれこそ初めて音楽に興味を持ち始めた、まだ小学生の頃から第一線で唄い続けてきた人である。今年デビュー30周年、15歳だったそうだから、僕は7歳か。大、大、大先輩だ。よくラジオから流れてくる彼女の曲をカセットに録音して聴いていたものだ。
そんな人と一緒に演奏出来る、ステージに立てる。僕は音楽を演り続けてきて本当に良かったと思った。

事実、そのプロ意識、仕事に対する考え方、唄うことに対する愛情。歌唱力はもう周知の事実だが、ものすごいものだった。
本当にいろんな土地に行った。普段、コンサートツアーには滅多に組み込まれる事のない場所にたくさん行った。そしてその、どの会場も客席はほぼ全てが埋まっており、宏美さんの歌声を楽しみにやって来た人で一杯だった。
ああ、演り続ける、というのはこんなに素晴らしく強いことなのか。2時間のコンサート、彼女はデビューしてからこれまでにいったい何本のコンサートをこなしてきたのだろう。観客の前で何曲の歌を唄ってきたのだろう。そして何人の人の心を歌声だけで癒し、救い、楽しませてきたのだろう。
幕が開き、宏美さんの声が会場中に響き渡ると、幸せそうな人たちの顔が客席にうっすら見える。そのたびに僕はそんなことを思った。

バンドメンバーも素晴らしかった。大先輩ばかりだ。青柳誠さん。ピアニスト。バンマスである。サウンドチェックの時にはよくごりごりのジャズを弾いていて、僕はこっそりそれを聞いているのが大好きだった。
むっちゃくちゃ格好良いジャズピアニストなのに、宏美さんのバックにいる時はけっして前に出過ぎることなく本当に唄をサポートすることだけ、そのコンサートと楽曲のことだけを考えて演奏される。そしてそれは宏美さんの唄を聴きに来ている客席にとって、とても大事な事だと教わった。そして移動日などには必ずと言っていいほど他のスケジュールが入っていて、それもいわゆる「仕事」だけではなく、ご自身のジャズトリオのライブだったり、その地方のライブハウスに自らがブッキングした、その土地のジャズミュージシャンとのセッションだったり、とさまざまな場所に日夜演奏しに出かけて行く。文字通り、毎晩演奏しているのだ。そのフットワークの軽さと行動力には本当に驚いた。僕もそんな四十代を目指そう、と本気で思った。
加瀬達さん。ベーシスト。今回のメンバーの中で最年長。ジャズ界ではその名を知らない人はいないであろう、数多くの名セッションに名を連ねる方である。加瀬さんも、サウンドチェック時にはさりげなーく4ビートのウッドベースのラインを刻んだりするのだが、これがもう鳥肌モン。でもあっという間にチェックを終えてしまうので「ああ、もっと聴きたい!」と毎回思っていた。楽器のことをとにかく熟知されていて、いろんなことを教えて頂いた。ヴィンテージの渋い音色のジャズベース、アクティブが内蔵された近代的な音色のフレットレス、そしてもちろんウッドベース。そのどれもが素晴らしい音色で鳴っていた。良い音で楽曲の低音を支える、というのはこういう事か、と何度もうならされた。
キーボードには中村建治さん。青柳さんとともに「ナニワ・エキスプレス」のメンバーである。「ナニワ」といえば言わずと知れた日本が誇るフュージョンバンドの草分け的存在のバンドである。先頃再結成を果たし、今も精力的に活動してらっしゃいます。中村さんも、きっとロックもジャズも大好きで、プレイヤーとしてのいろんなスキルやこだわりをお持ちの方のはずである。ご自身でもとても素敵なソロアルバムを創られている。その人柄からも感じ取れる、とても優しく強い、そして繊細なアルバムだった。そしてやはり中村さんにも、宏美さんのバックにいる時はあくまでも宏美さんの唄、楽曲ありきでプレイする、という姿勢を強く感じた。シンセの音色を作る時も、音量のバランスを取る時も必ず楽曲に必要とされるポジションを的確に、そして常に真剣に取り組んでいらした。
今回のツアーで大きな収穫となったのは、演奏家としてのスキル、実力というものは派手な自己主張や自分のスタイルはこうだ!みたいなものを出さずとも、その唄を豊かに支える、脈々と流れる大きなアレンジという幹の中で必ず大きな意味を為す、ということだ。
本番中、常に隣の立ち位置に居た、ドラムの石川雅春さんには、そのプレイを横で見るだけで本当にそのことを強く教わった。音量、音色、テンポ、それら全てのコントロールがまさに石川さんの両手両足に於いて自由自在。もちろん石川さんもあらゆるジャンルで百戦錬磨、さまざまな名セッションに数多く参加していらっしゃる方である。
例えば、宏美さんの唄が、その楽曲の感情の起伏で揺れたりする時、石川さんは絶妙のタイム感でその曲の一番良いところに僕ら演奏者を連れて行ってくれる。何かと言うと唄にくっついていってしまう癖のある僕のギターを、さりげないフィルやシンバルワークで一番良い場所に散らしてくれる。ああ、口で言うのがもどかしい。
観客の誰も、そんなことには気付いてない、と思う。何事もなかったかのように、その夜の会場にただ宏美さんの唄が素晴らしく響くだけだ。だからすごいのだ。誰も演奏など聞いていない?いや、何をも邪魔することのない、大きな太い音の幹が鳴っているのだ。ステージ上では、そんな素晴らしいミュージシャンの対話が、静かに静かに渦巻く。その対話を楽しむかのように反応して、また違う感情の起伏を見せてくれる宏美さんの歌声。そうしてその日、その時間だけの極上の音楽が産まれる。それが観客に届く。

今回のツアーしか僕は経験してないわけだが、今回の、どの会場に来たお客さんもきっと、また観たい、また宏美さんが近くに来たら聞きに行こうと思ったと思う。宏美さんはそうやっていろんな場所で、30年唄い続けてこられたんだ、きっと。

これはすごい。これは本当にすごいことだ。まさしくニッポンの宝、でしょう?

2004年7月28日


6/25 みんな頑張れ

僕がサポートをさせて頂いてるアーティスト。みんな今年の夏は凄そうですよ。

まずは我那覇美奈。所属事務所を離れ、新体制となっての第一弾シングル「月の雫」。
これがもう、すごいです。究極の癒しバラード。流行りの沖縄風、とかでは決してない、でも何処となく沖縄や彼女の故郷である奄美大島を連想させる大きなメロディ。和、なんだけど古臭くない。懐かしいんだけどちゃんと現在を歩いている楽曲。そして彼女自身の作詞による、とても柔らかくあたたかく、それでいてどこか痛みを乗り越えて来た秀逸な言葉たち。それを包むのはハワイアンの手法であるスラッキーギターと呼ばれる特殊なチューニングを施されたアコースティックギターを中心としたサウンド。
これがまた国や風景を限定しない、それでいて異国情緒や大陸的な懐かしさを喚起させることに一役買っている。
そして今も多分、全国を飛び回ってプロモーションライブを展開している頃だろう。そんな難しい楽曲を美奈ちゃんはたった一人でも、アコギと唄だけで十分その素晴らしさを伝えられるほどに成長した。
僕やキーボーディストがサポートで入ることももちろんあるが、ハーモニカホルダーをぶら下げて、アコギ1本で唄う彼女の唄は、どんな場所でも、そこにいる人たちを暖かく包み込んでしまうだろう。
そんな彼女の成長と、素晴らしい楽曲との出会いの相互作用なのか、所属レコード会社の気合いも十分である。有線、ラジオ、テレビなど、いろんなメディアではっきり言ってかかりまくりである。事実、僕が連日のように通っているペットのコ◯マでも、行く度に耳にする「月の雫」である。いろんな人の愛と、努力が実を結ぶことを願って止まない最近の我那覇美奈ちゃんである。

そして、類い稀なソングライティングの才能と、奇跡的なハイトーンボイスとギターテクニックを合わせ持ったアーティスト、森広隆である。「ゼロ地点」という曲のプロモーションビデオで、僕は彼と出会う前から彼のことを知っていた。地下鉄のホームという背景だったと思う。その、陰鬱でありながらも、めくりめくような上昇感を持ったそのビデオをたまたま見かけた僕は、一発で彼の魅力にヤラれていた。
ロック的な乱暴さを持ちながらも計算され尽くした16ビートのファンキーなギターのカッティング、コードワーク。目が回るようなスピード感の中で展開される、文学的で理知的な言葉。そしてトップが実音のEまで楽勝、という唯一無二のハイトーンボイス。そんな彼の魅力が詰まった1stアルバム「並立概念」がリリースされた時には、世の中がひっくり返るに違いない、と思った。RIP SLYMとのコラボレーション、という幸せなオマケも付いた。
ところが、である。2ndミニアルバム「CYCLON」がリリースされた後も、未だもってなんだかマニアックなファンク好きな人たちの間で偏愛的に愛されている、という位置に甘んじている。これがプロモーション戦略のせいだ、とかファンキーなものは日本の土壌には根付かないんだよ、などと片付けるわけにはいかない、断じていかない、と半ばキレ気味だったところに届いたのが今回のシングル「RAINBOW SEEKER」である。
キタよ!森くん、これだよ!ふふ、痛快なほどPOPなアレンジに美しいメロディと歌詞、そして研ぎ澄まされたボーカルワーク。1stの森くんが好きだった人も、まあ騙されたと思って2回以上聞いてみなって。実は僕もそうでした(笑)。そして夏にはワンマンライブが控えている。その前哨戦として7/2のO-EASTでのイベント。これ、もうヤバイですよ。日本が誇るFUNK MASTER、西脇辰弥氏参加です。すでにリハーサル始まっていますが、すごいですよ。西脇氏の派手なオーラ受けまくってバンドのグレードアップ具合ったらもう。
ああ、楽しみだ。

そして我らが黒田倫弘!4thアルバムその名も「SEED」。
マスタリングも終了し、ついに完成いたしました!
このアルバムに関しては、恒例のアルバムレビューを製作中ですので多くは語りません。
が!しかし!これ、すごいです。ついに産まれました。名盤と呼ぶに相応しいアルバムが出来ました。
もちろんこのアルバムを引っさげてのツアーがあります。ものすごいライブになることを保証します。
みなさん、楽しみにしててください。今年のクロダはすごいですよ。
みんな頑張ろうね。

2004年6月25日

 


「日々」

曲書き月間です。
むくむく昼頃起き出してまずパソコンの前で、昨夜創ったデモを聞きながらタバコに火を点ける。
そのまま「あーあそこのコードがなあ」などと何か思い付いてしまい、作業に入ってしまう。
「・・・これがパソコンのいかんところだ。立ち上げたら途端。昨日と同じ環境が目の前に広がる。
そのまんまの音が再生される。トータルリコールはそりゃ便利だが、昔の(といっても10年やそこらです。はい、まだまだ新米です。ナマ言ってすいません)レコーディングなんてもんはなあ。昨夜のアナログのテープ持ってスタジオに出かけて、そこでそのスタジオの卓で立ち上げておいおい、あんなに追い込んだEQは最初っからやり直しかよ。みたいな喜びがあったもんだ。こりゃまるで業界親父の小言だな。
いかん、何を言いたいのかよくわからなくなってきた。
だから、このサビ前のコードは・・・」

・・・いかん・・これでは昨夜の続きではないか。
僕の新しい1日はどこから始めるのだ。

などとパジャマのままつぶやきながら、シャワーを浴びたり(浴びなかったり)。

そのまま1日パソコンの前だったり。

 

・・・大丈夫ですよ(笑)。この混沌とした中から産まれるものもあるんです。

名作が産まれつつあります。たぶん。名曲がいくつか。いや、いくつも(笑)

早くこのメロディたちを何とかしたげたいです。
何とかって。聞いてあげてほしいです。

そのうちね。

2004年2月9日


「a day」

 というイベントに参加してきた。我那覇美奈ちゃんのサポートとして、東京、名古屋公演に。
まだ知り合ったばかりで何の情報もなく、よくは知らないのだがミュージシャンでありプロデューサーである「YOSSY」という男が発起人である、らしい。
「なんだかよくわからんけどこの人、なんかデキル!」とか「なんかウマが合うなあ」とかそういう人と出会える事。
それはこの仕事をしていてもっともエキサイティングな瞬間だったりする。これから始まる未知数の何か、にわくわくしたりする。またひとり、そんな人に出会えた気がする。
YOSSYはこのイベントに並々ならぬ情熱を注いでいるようである。アンコールで行われる出演者によるセッションも、普通なら何となくその場しのぎでやっつけてしまうイベントが多い中、毎回かならずきっちりリハーサルをしてのぞむらしい。事実、この名古屋ではなんと出演者全員の持ち曲をメドレーにして全員で演奏するという、それはけっこうな労力でありとてもやっつけで出来る事では無いのだが、そんな充実したアンコールで場内を湧かせていた。
出演者も、もちろん流動的ではあるようだが、全員が心地よい緊張感と距離感を保ったまま、ほど良い連帯感でひとつのステージを作り上げようとしているように見えた。素敵なイベントだと思う。

 名古屋公演は出演者全員でのバスでの移動。早朝だったこともあり、行きの車内は特にコミュニケーションを取る事も無く、それぞれの時間を楽しんでいた。過半数の人は眠っていたのだろう。
無事本番を終え、軽い打ち上げを終え乗り込んだ、帰りの車内は、途中買い込んだアルコール類とつまみが散乱し、そして僕はアコギを手にし、ほとんど一人カラオケマシーンと化していた。
いやー昔からなんです。ああいう場、飲んでみんながわあわあ唄ってる、その伴奏をしている時って一番楽しいんです。何曲くらい弾いたんだろう、長い一日が終わり、一人、また一人と疲れて眠ってしまう中、僕とYOSSYと、あらゆる歌謡曲を最後まで唄い続けておりました。楽しいイベントだったなあ。

 その「a day」も含めここ数本のイベントを我那覇美奈ちゃんと久々に回った。まだ中学生くらいの時に奄美大島から東京に出てきて唄い始め、メジャーデビュー、数多くの取材、タイアップ、ツアー・・・その他いろんなものを若くして経験してきたであろう彼女は、ここに来てまた新たに、自分探しを始めているように見える。ひょっとしたら苦しんでいるのかも、というふうにも見える。
華やかな世界、その光と影。無邪気に、ただ唄う事が楽しい、という時期はとうに過ぎているだろう。
唄う、ということ。創る、ということ。そしてそうやって創ったものが商品として流通すること・・・そんな大人の世界を経て、今彼女は何を思って唄うのだろうか。ステージに立つのだろうか。
僕はこれだけは自信を持って言える。シンガー我那覇美奈の底力はまだまだこんなもんじゃない。
彼女の持つ声の魅力、表現力。それはリハーサルやレコーディングなどでもいろんな彼女の感性と唄を聞いている僕らが言うのだ、間違いない(長井風)。そして、人としてとしてあまりにも実直であるがゆえに入り込んでしまう、アーティストとしての自分との戦い。いいと思う。どんどん苦しんで、試行錯誤して、それでも唄って。
本番で失敗したっていいさ。みんなそうだ。
適当に上手く立ち回って、その場をしのぐよりずっといい。
君が唄いたい、と思って、その時に僕のギターがあるといい、と思ってくれたならそんな嬉しいことはない。
ステージでギターを弾く時も、曲を創る時も僕は、その人の人生を背負っていたいと思う。ステージでシンガーが言葉を紡ぐ、メロディーに乗せる、その瞬間を共に音楽として昇華させたい、と思う。
誰がなんと言おうと、それが僕の存在価値であるからね。

 これから楽しみにしています。みんな、本当にみーんなが幸せになるといい。唄う人も、創る人も、売る人も買う人も、日々頑張って働いている人も、一生懸命政治を動かしてる人も、イラクへ派遣されてしまった人も、みんなが。

2004年1月19日


謹賀新年

 12/28に行われた黒田倫弘の赤坂プリンスでのディナーショウ、それはそれは素晴らしい音空間だった。

 ディナーショウというと、目が飛び出るくらいの値段と、それに見合うんだかどうだかよくわからない見栄えの豪華な食事、お仕事お仕事した大編成のバンド。そしてキラキラに飾り立てたおじさんおばさんが、酔って騒いだり、お約束で客席から登場するシンガーに絡んだりペタペタさわったり(そこまで悪かないか・失礼しました)、とあまり良い印象を持っていなかったものだが、今回のクロダのディナーショウはそういったイメージ(そんなイメージは僕だけなのかもしれない)を払拭する素晴らしいステージだったと思う。
観にいらした方の感想を聞くと、堅苦しさのないバイキング形式で種類も多く、とても美味しい食事だったそうな。値段もディナーショウとして考えると格安、である。
クロダらしい、といえばクロダらしい、ディナーショウだったようだ。

陳腐な言い方をすると、いわゆるホテルの大宴会場。
いわゆるライブな空間。残響、響きの多過ぎる会場は、アーティストサイドにとってはなかなか演りづらいものだが、今回はその残響の多さを味方に付けることが出来た、という意味でも非常に価値のあるコンサートだった。
以前、森山良子さんのツアーに参加させて頂いた時に驚いたのは、良子さんの足元にはどんな時もモニタースピーカーが置かれていなかったことだ。もちろんステージ上に音を返すスピーカーが両サイドには置かれているものの、それはあくまでも補助であり、良子さんは客席に向いているスピーカーから聞こえている音を中心に唄っているように感じた。
今回のクロダはまさしくそれだった。ステージ上の音場と渾然一体となった会場全体の音。その中から楽器の音、自分の言葉、響き、ピッチ、ブレスのタイミングなどベストなものを慎重に探して丁寧に唄っていく、そんな感じだった。それは、彼がソロになってからずっと一緒に演奏してきた僕が、初めて味わうクロダの唄だった。

一歩抜けた。何かが抜けた。そんな彼のパフォーマンスに僕ら演奏者が触発されないはずはない。
1曲目の「life」は、新たに付け加えたカルテットの導入部の後、「結ばれていく 救われていく」という彼の唄から始まる。その瞬間に全てのことが決まった。初っぱなから何かが降りてきた感じだった。
こうなったら後は、全ての楽曲、場面に於いてこの満ち足りた音をキープしながら上昇していくことだ、そんな事をライブ中、僕は無意識の中で繰り返し考えていた気がする。
永井さんがグランドピアノに向かっている。クロダのライブでは初の試みであるそんな緊張感も至福の心地よさとなって、鍵盤で唄うように打弦する永井さんの音と残響が僕らを包んでくれる。

とかくミュージシャンはステージに於いて自己主張が出る。というか出て当たり前、というかそれが無くて何も産まれないとは思う。でもインストゥルメンタルで無い限り、唄のサポートである限り、シンガーの呼吸、世界、言葉を自分の演奏上の都合で邪魔しては何にもならない、と思う。
自分の主張、プレイヤビリティを抑えて合わせる、のではない。
合う、のだ。唄を創ろう、としてさえいれば。
当たり前の事、といえば当たり前の事なのかもしれない。でもあらためてそんな事を強く感じた赤坂プリンスだった。
確かにこの日の演奏は僕らに何かをもたらした。

そして。
クロダが変わったのか、僕が変わったのか、バンドが変わったのか、とても理屈では説明出来ないが、その後の12/31六本木Morph-innでのカウントダウンライブ、そして翌日、渋谷O-EASTでのニューイヤーライブ。両日とも、僕らにとって忘れられない演奏、となった。

ああ、例えば20回リハーサルをしたらかならずこういうライブになりますよ、と決まっていればいいのに。そしたら僕らは徹夜ででもスタジオに入るのに。
もちろんそんなことで産まれるものではない。だからこそ面白い。生身の身体から発せられるからこそ産まれてくる唄やプレイやアクシデントがあって、それに呼応するそれぞれの思いがあって、それらがぶつかり合ってそこには予期せぬ感動が降りかかってくる。
シンガーがいて、演奏者がいて、スタッフがいて、会場があって、機材があって、そして観客がいて。
それぞれのコンディションがあって。
それらが一体になる時。その会場が至福の時に包まれる。
そんな瞬間の芸術だからこそ、ライブなのだ。

やられた。いい年末&年始になった。打ち上げでは、この上なく旨い酒を飲んでしまった。

あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。そして誰もが幸せな1年になりますように。

2004年1月3日


よろしくお願いいたします

ある日、一緒に飲んでいた染谷俊に怒られた。
「馬場ちゃんのサイト、動き無さすぎ!」 (笑)

た、たしかに・・・。
というわけでリニューアルです。

同時に僕の個人ユニットであるAnything to order?による、楽曲のMP3配信も始めます。
僕は10数年ほど前に自分のバンドを脱退してからは、誰かに楽曲提供をしたり、ライブやレコーディングで演奏したり、という活動をしてきた。
自分が創ったメロディを誰かが唄ってくれる、という快感。
そのアーティストの方向性に合わせて自分の音楽の引き出しを開けていく作業。
そしてそれがリスナーの耳に届く。
これがミュージシャンとしての僕の大きな核であり、同時に最大の喜びである。
自分が表立ってアーティストとして活動する事にはあまり興味はなかったし、今もそれは変わっていない。
反面、日々誰かのために、誰かを想定して音楽を創っていると、単純にクリエイターとして自分の好きなようにモノを創ってみたい、という欲求が生まれてくることも当然ある。
Anything to order?はそんな時に、そんな欲求を放出できる場所にしたい、と思っています。

それを聴いて下さる方がいるなら。そして何かしらの感情が動いてくれるのだとしたら。
ミュージシャンとしてそんな嬉しい、幸せな事はありません。

第一弾として、杏子さんに提供した「星のかけらを探しに行こう」をセルフカバーしました。
杏子さんは、僕が作曲家として一人で歩き始めた時に、最初に僕の楽曲を評価し、採用して下さったアーティストです。自分の書いたメロディが、あの個性溢れる声質で唄われるのを初めて聴いた時の興奮は、10年経った今もまったく色褪せません。
彼女に提供した数々の楽曲は、やはり僕にとってとても大事な宝物です。
この曲が、10年という歳月を経てきた感慨と、杏子さんへの感謝の意味も込めて、自分なりに味付けしてみました。

MP3ダウンロードのみという、ある種変則的なリリース方法ですが、Anything to order?の活動形態にはとても合ってるんじゃないかなと思い、今回の企画はこの形を取らせて頂きます。
いずれ、CDとしてリリースする事も考えています。

今年もあとわずか・・・みなさんは良い1年でしたか?

2003年12月18日



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